ブランドストーリー

どんな人にも「人生のドラマ」があります

喜びも、苦しみも、出会いも別れも、そのすべてがあなたの人生をつくってきました。
でも、その物語は時間とともに少しずつ忘れられていきます。
生まれた時の環境や幼少期、壮年期の思い出、人生の転機や大きな出来事など
あなたの人生ドラマは、家族、次の世代の大切な財産となります。
ただの記録ではなく、声や表情までも残すことで、あなたの人生を美しい “作品” に仕上げます。

どんな人にも
「人生のドラマ」があります

喜びも、苦しみも、出会いも別れも、
そのすべてがあなたの人生をつくってきました。
でも、その物語は時間とともに
少しずつ忘れられていきます。
生まれた時の環境や幼少期、壮年期の思い出、
人生の転機や大きな出来事など
あなたの人生ドラマは、家族、
次の世代の大切な財産となります。
ただの記録ではなく、
声や表情までも残すことで、
あなたの人生を美しい “作品” に仕上げます。

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Story

私たちが「とこしえのうた」を始めたきっかけは、代表自身の実体験にあります。

・・・

 私が結婚を決めた頃、それまで元気だった父が体調を崩し、検査入院することになりました。父は当時6 0 歳。家族みんな心配してはいたものの、「まだ若いからすぐに良くなるだろう」と思っていました。
 入院後の父は大きな変化もなく、少し元気を取り戻したように見え、家族も安心して回復を待っていました。ところが、入院から約1ヶ月後に容体が急変し、集中治療室に運ばれました。
すぐに家族全員が病院に駆けつけましたが、父はもう話せる状態ではなく、数時間後に私たちに見守られながら旅立ちました。入院してたったの1ヶ月。あまりにも突然すぎて、気持ちの整理がつかないまま、お葬式を迎えました。毎日顔を合わせていたのに、最後に何を話したのかも覚えていません。そのくらい、日常の延長のように、父は静かに旅立ってしまいました。

 父が亡くなってから半年後に私は結婚し、やがて子宝にも恵まれました。一方で、母と家族を守る立場になり、仕事でも責任ある立場を任されるようになったりと、それまで自由奔放だった私は、急激な変化に心が追いつかず、不安定な時期を過ごしました。
 そんなある日、偶然父の知人と出会い、生前の父の話をたくさん聞く機会がありました。父と私は良好な関係でしたが、何でも話し合えるような関係ではなく、いわゆる昭和の父子関係。だからこそ、話に出てくる父の姿はとても意外で、自営業を営みながら「相当な苦労と努力」をしていたこと、「家族への深い想い」を抱えていたことを知りました。家庭の中で見せたことのない一面に、私は今さらながら、自分がどれだけ父に守られていたかを痛感しました。そして今、自分が家族や仕事に翻弄されていることを思うと、そんな父のたくましさに胸を打たれ、恥ずかしさすら感じました。
 もっと生前に父と話をしておけば良かったと、失って初めて気づく愚かさに悔やむ自分もいましたが、今なら理解できます。大切で近い存在だからこそ、見せない姿や、あえて伝えなかったこともあったのだと。
 6 0 年という人生を生き抜いた父を知ることをできたことが自分にとって大きな財産となりました。

 人にはそれぞれの「壮大な人生ドラマ」があります。私の場合、たまたま父の知人から貴重な話しを聞くことができ心に刻むことができましたが、時が経過すればそれらも風化していく儚さも感じます。また、自分のルーツとなる方々がどんな人だったのか?、どのような人生を歩んだのか?、どんな声や表情だったんだろうか?など、ご先祖様が様々な苦難を乗り越え生き抜いてくれたおかげで、今の自分があることを、想いを馳せる機会が増えてきました。
 そして、そのような思いから「人生は記録するに値するものではないか」と思うようになり、
「とこしえのうた」を立ち上げるに至りました。

 苦しかった経験も、振り返れば懐かしく語れるものです。自分ではうまく話せなくても、誰かに問いかけられることで、記憶がよみがえることもあります。
 誰にでも語るべき人生があり、歩んできた経験こそが大きな財産だと、私たちは考えています。みなさまの「人生の記憶を遺す」お手伝いができれば幸いです。

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私たちが「とこしえのうた」を始めたきっかけは、代表自身の実体験にあります。

・・・

 私が結婚を決めた頃、それまで元気だった父が体調を崩し、検査入院することになりました。父は当時6 0 歳。家族みんな心配してはいたものの、「まだ若いからすぐに良くなるだろう」と思っていました。
 入院後の父は大きな変化もなく、少し元気を取り戻したように見え、家族も安心して回復を待っていました。ところが、入院から約1ヶ月後に容体が急変し、集中治療室に運ばれました。
すぐに家族全員が病院に駆けつけましたが、父はもう話せる状態ではなく、数時間後に私たちに見守られながら旅立ちました。入院してたったの1ヶ月。あまりにも突然すぎて、気持ちの整理がつかないまま、お葬式を迎えました。毎日顔を合わせていたのに、最後に何を話したのかも覚えていません。そのくらい、日常の延長のように、父は静かに旅立ってしまいました。

 父が亡くなってから半年後に私は結婚し、やがて子宝にも恵まれました。一方で、母と家族を守る立場になり、仕事でも責任ある立場を任されるようになったりと、それまで自由奔放だった私は、急激な変化に心が追いつかず、不安定な時期を過ごしました。
 そんなある日、偶然父の知人と出会い、生前の父の話をたくさん聞く機会がありました。父と私は良好な関係でしたが、何でも話し合えるような関係ではなく、いわゆる昭和の父子関係。だからこそ、話に出てくる父の姿はとても意外で、自営業を営みながら「相当な苦労と努力」をしていたこと、「家族への深い想い」を抱えていたことを知りました。家庭の中で見せたことのない一面に、私は今さらながら、自分がどれだけ父に守られていたかを痛感しました。そして今、自分が家族や仕事に翻弄されていることを思うと、そんな父のたくましさに胸を打たれ、恥ずかしさすら感じました。
 もっと生前に父と話をしておけば良かったと、失って初めて気づく愚かさに悔やむ自分もいましたが、今なら理解できます。大切で近い存在だからこそ、見せない姿や、あえて伝えなかったこともあったのだと。
 6 0 年という人生を生き抜いた父を知ることをできたことが自分にとって大きな財産となりました。

 人にはそれぞれの「壮大な人生ドラマ」があります。私の場合、たまたま父の知人から貴重な話しを聞くことができ心に刻むことができましたが、時が経過すればそれらも風化していく儚さも感じます。また、自分のルーツとなる方々がどんな人だったのか?、どのような人生を歩んだのか?、どんな声や表情だったんだろうか?など、ご先祖様が様々な苦難を乗り越え生き抜いてくれたおかげで、今の自分があることを、想いを馳せる機会が増えてきました。
 そして、そのような思いから「人生は記録するに値するものではないか」と思うようになり、
「とこしえのうた」を立ち上げるに至りました。

 苦しかった経験も、振り返れば懐かしく語れるものです。自分ではうまく話せなくても、誰かに問いかけられることで、記憶がよみがえることもあります。
 誰にでも語るべき人生があり、歩んできた経験こそが大きな財産だと、私たちは考えています。みなさまの「人生の記憶を遺す」お手伝いができれば幸いです。